また1人、独身が減りましたね。
スーパームーンと共におめでたい話題が飛び込んできました。
おめでたい、とは受け取れなかったファンもいるようで速報が流れた後は巷で、心さまよわせている人が続出したとか。
福山雅治さんと言えば独身の最後の砦、みたいな存在でしたもんね。
ではでは、
特に、お父さんとの関係について詳しくご紹介しますね。
それでは早速いってみましょー!(^^)/
福山雅治の生い立ち
福山雅治さんは、1969年2月6日に長崎県で産まれました。
デビューは1988年からで、歌手に俳優にラジオのDJに・・・とその活躍はジャンルを問わず続けています。
自分が出演した「ガリレオ」シリーズでは、劇中に流れる曲も製作しており、才能を遺憾なく発揮しているんです。
そんな順風満帆とも言える芸能活動の裏には、幼少期の生い立ちが隠されていたんです。
福山雅治のお父さんの影響
というのも、福山雅治さんは長崎県で産まれています。
ご両親ももちろん長崎の人です。
このご両親、2人とも長崎で戦争中に被爆されているんだそうです。
つまり福山雅治さんは被爆2世ということをご自身で発表されていました。
何だか全く現実味を帯びない話しのようですが、長崎や広島の人にして見れば、被爆2世というのは珍しくない話なのかもしれませんね。
2015年で戦後70年という節目を迎えていますが、戦争という事実と原爆投下という歴史はいつまでも消えないものとして受け継がれていくのでしょう。
さて、少し話がそれてしまいましたが、そんな福山雅治さん、幼少期は決して裕福とは言えない暮らしをしていたようです。
子どもの頃の写真がこちら。
ここにもやはり原爆が深く関わってくるのですが、福山雅治さんのお父さんは定職にも就かず、麻雀ばかりをしていたようです。
当然生活費はお母さんが働いたパートのお金のみ。
そのお金もお父さんが博打に使ったり、お酒代になって消えていったりしてしまったようです。
お父さんは、家にも殆ど帰ってこず、帰ってくると大声で喚き散らしていたようです。
お父さんと遊んだ記憶や、どこかに家族で出かけた記憶というのは福山雅治さんにはないようですね。
それでも、1つ年上のお兄さんと、お母さん、3人でつつましく暮らしていたようですね。
更に、お父さんは福山雅治さんが高校2年生の時に亡くなっています。
病気で亡くなったと言っていますが、もしかしたら被爆のせいで長生きできなかったのかもしれません。
福山雅治さんは、博打うちのお父さんのことをあまり憎んではいないと語っています。
被爆してしまい、日々自分の体が変わっていくことに恐怖を覚えたお父さんが、現実から逃げるために麻雀やお酒におぼれてしまったのも仕方のないことだ、と思っていたようです。
しかし福山雅治さんは当時を振り返って
「こういう家族はいいなという実例はそばになかった」
とも言っています。
憎んではないけれど、そこに幸せな家族の姿、というのはなかったんでしょうね。
お父さんのお葬式では参列者はお父さんの麻雀仲間の人が多くやってきたようです。
「小指のない父の棺桶に麻雀仲間達が泣きながら牌を並べていた」
と、当時を振り返っています。
お父さんの死後、借金の取り立てがやってくることもなく、葬儀では泣いてくれる仲間もいたため、福山雅治さんは今のように笑っていられるのかもしれませんね。
福山雅治のお父さんの職業は?
被爆してしまっていたお父さんはどうやら、麻雀仲間として裏の組織に繋がっていたかも?なんていう情報もありました。
それは、お父さんの葬式で、小指のない人たちがたくさん参列していたから、と理由がつけられています。
しかしこれって本当なんでしょうか?
確かに福山雅治さんは自分のお父さんは小指がない、と言っていますが、参列者まで小指がないとは言っていないのではないでしょうか?
お父さんが小指がないのも、借金のカタで落としたのか、それともまた違う理由でないのか分かりませんが、あまり人に誇れる父親ではなかったようです。
ちなみに、名前は明さんと仰ったとか。
福山雅治のお父さんへの思い
そんな福山雅治さん、お父さんのことは本当に憎んでいなかったのでしょうか?
被爆のせいとはいえ、自分たち家族からも逃げてしまった父親に対して何か複雑な感情がなかったのかなあ、と思います。
映画「そして父になる」に出演した福山雅治さんは役どころに対してこんな感想を言っています。
「経験がないものですから、どうしたらいいか不安でした。」
と。
これは当然自分が父親になったことがない、という意味ですが、お父さんとのエピソードを知る人にとってはもっと深い意味に受け取れますよね。
自分がお父さんから、お父さんらしいことをされたことがない、つまり経験がないから、どうしたらいいのか不安だとも受け取れませんか?
やはり、憎んでいなくても「わだかまり」のようなものは抱えていたようで、当時を振り返り
「家族は好きじゃなかった」
とも発言しています。
友達の家とかと比べてしまいますよね、どうしても。
そこで自分の置かれてる状況とか改めて感じちゃったのかもしれませんよね。
ラジオでこんな発言も
ただ、ラジオでこんな風に父親のことを語ったこともあるんですよ。
リスナーからの
「ましゃはお父様と小さいころどんなことで関わったか記憶がありますか?
テレビでスポーツ観戦とか、遊びとか、いろいろ。」
という質問に、
「よく遊んでくれてたよ。
父ちゃんがヒーローに見えた時が、一番感動したなぁ。」
とのこと。
どういうことかというと、福山雅治さんが子供のころにスーパーカーブームがあったそうです。
ランボルギーニとかのあれですね。
福山雅治少年と兄は「すごい!スーパーカー乗りたか!」と言ってたそうなんです。
すると・・・
そしたら父ちゃんが『分かった。乗せてやるけん!』って言って、本当に持ってきたの。
たぶん友達に借りてきたんだろうけどさ。
確かフェアレディ240ZG。『どうだ雅治!これがスーパーカーやぞ!』って。
子供ながらに超一流のではないってことは分かってたけど、父ちゃんが頑張ってくれたのがすごく嬉しくて。
この時は、嬉しそうにその思い出を語ってました。
そして、
その日は、父ちゃんが1番ヒーローに見えた日だった。
という発言だったんですね。
父の一言が福山雅治を支えた・・・
そして、実は最近、父親についてこんな風に発言しています。
2015年8月16日放送の『ヨルタモリ』にて。
ある日、福山雅治少年は、父親・明から「たばこを買ってきてくれ」と頼まれます。
ところが、近所の店には父親の好きな「LARK」が売っていなかったらしいんですね。
そこで、少年・福山雅治はわざわざ遠くまで歩いて買いに行ってきたそうです。
当然、帰るのが遅くなってしまって、お母さんが
「どこに行っとったんね。
そんなに時間かかって。心配するがね!」
と。
ただ、その時、父親・明は優しい声でこう言ったそうです。
「いやいや待て待て、そうじゃなか。
雅治は『LARK』ば探しに行ったと。
コイツは根性だけはあるとたい」
そして、
「ぼくは後にも先にも親父に褒められたのはそれだけ。
“根性だけはあるとたい”と言われたことが成功体験としてあって、それを支えに東京で頑張った。
この25周年は、父ちゃんのその一言で支えられてきたんじゃないかって」
ずっとこの一言を覚えてたんですね。
確かに福山雅治さんって、決して最初から目標のミュージシャンとして今の位置を確立したわけじゃないし、表には出さない悩みや苦労もあったんだろうと思います。
でも、そんな時に支えになったのが「根性だけはある」という一言だったのかもしれません。
それに、もちろん時間が経つ中で変わってきた部分があるんでしょうけど、こうして発言を聞くと、やはり特別な思いを父親に対して持っているように感じられますよね。
そして、歌詞に込められた思い
また、福山雅治さんは「誕生日には真白な百合を」という歌を作っています。
この歌、実は
「自分の誕生日に毎年母親に花を贈っているというエピソードや亡くなった父親に対する想いを歌った内容になっている」
ということらしく、ここにお父さんへの思いが込められているようです。
「誕生日には真白な百合を」はこちらから。
こうやって感じて読んでみると、涙が溢れそうになりました。
是非とも吹石一恵さんと、温かく幸せな家庭を築いて欲しいものですね。
(P.N.オレンジ)
以上「福山雅治の父親の職業は?福山を支えたある温かい一言とは?」をお送りしました。
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