2014年のノーベル物理学賞を日本人が受賞しました!
名城大学教授の赤崎勇氏と名古屋大学大学院教授の天野浩氏、カリフォルニア大学教授の中村修二氏の三名です。
そして、評価された青色LED(発光ダイオード)の開発の礎を築いたのが名城大学の赤崎勇氏。
この記事では、
についてお送りしたいと思います。
赤崎勇氏のプロフィールと業績
実は、赤崎勇氏はすでに85歳。
これだけで赤崎勇氏の研究にやっと時代が追いついた・・・という感じがします。
では、赤崎勇氏のプロフィールをご紹介しましょう。
赤崎勇(あかさきいさむ)
生年月日:1929年1月30日
出身:鹿児島県川辺郡知覧町
略歴:
1946年 鹿児島県立第二鹿児島中学校卒業(旧制第七高等学校)
1952年 京都大学理学部化学科を卒業し、神戸工業(現富士通テン)に入社
1959年 - 1963年 名古屋大学助手、講師、助教授に就任
1964年 松下電器産業東京研究所基礎研究室長に就任
1981年 名古屋大学教授に就任
1992年 名古屋大学を定年退官し、同大名誉教授、名城大学教授に就任
今はどうかわかりませんが、昔はユニークな研究者は京都大学から生まれると言われたものです。
実際、ノーベル賞の受賞回数でいうと、東京大学より京大のほうが多いんですよね。
文化勲章も受賞し、文化功労者でもあります。
赤崎勇氏の家族と少年時代
鹿児島県出身の赤崎勇氏。
父親は薩摩士族の末裔であり、母親は敬虔な仏教徒だったそうです。
では、赤崎勇氏の幼少の頃の両親の教育方針とは?
実はそれは「放任主義」でした。
赤松勇氏の自由な発想力は、ひょっとするとこの両親の教育方針のもとではぐくまれたものかもしれません。
また、必ずしも勉強一辺倒ではなく、「敬天会」という団体での活動にも熱心に参加していたとのこと。
西郷隆盛の言葉の「敬天愛人」の一部を冠した会の名前にもあるように、西郷隆盛を敬って、心身を鍛える会。
毎週日曜日には、西郷隆盛にまつわる地の掃除なども行っていたようです。
※敬天会が、現在も活動しているのかどうかは不明です
赤崎勇氏の業績
まず大学卒業後に入社した神戸工業で、赤崎勇氏はブラウン管の蛍光面を担当していたらしいです。
「ブラウン管」ってもう今の若い人からしたら「なにそれ?」って感じですよね。
簡単にいうと、昔のテレビの部品ですが、このときの仕事から赤崎勇氏は「光る単結晶」を作りたいと考えていたそうです。
これがその後のLED研究への礎になってるわけですね。
そして、名古屋大学助手へと抜擢されるわけですが、これは上司の働きかけによるものだったそうです。
この時期の論文発表などについては把握できませんでしたが、おそらく目覚ましい研究業績があったからこその抜擢だと思われます。
さらに、その後の研究が、当時の松下電器東京研究所所長(のちに松下電器取締役)の小池勇二郎氏に認められて、松下電器からの招へいを受けるわけです。
この時、赤崎勇氏は35歳。実に、東京研究所でもっとも若い室長だったそうです。
しかし、これもやはり周りからの求めらえての転職。
業績もさることながら、人柄も素晴らしい方なんでしょうね。たぶん。
主な研究業績
ところで、ここで主な研究業績をご紹介しておきましょう。
主な業績
低温堆積緩衝層技術による高品質GaN結晶の作製に成功(1986年)
p型GaNの結晶化に成功し、GaNのpn接合による青色発光ダイオードを実現(1989年)
GaNからの室温における紫外光誘導放出に成功(1990年)
GaN/GalnN量子井戸電流注入誘導放出の観測に成功(1995年)
まあ、一般人にはよくわかりませんよねw
ただ注目は、いつ発表されたものかということ。
すべてが名古屋大学教授に就任後のもの。
ということは、名古屋大学の研究環境がそうとう素晴らしいものだったのか?
もちろん、それもあるようですが、それだけではないようなのです。
赤崎勇氏と発光ダイオード
もともと松下電器に在籍中に、赤崎勇氏は赤色ダイオードの研究に携わっていました。
松下幸之助氏とのエピソードもあります。
赤色発光ダイオードの試作品に興味を持った松下氏。
「これ、おもろいな。どないなってるの?」
そこで、赤崎勇氏が研究構想を説明すると、松下氏は一言。
「ほな、やってみなはれ」
新プロジェクトがその場で決定した。
そんな出来事があったらしいです。
青色ダイオードの研究へ
そして、業界でも求められていた青色ダイオードの研究も、松下電器在籍時から進めていました。
実用化こそされなかったものの試作品の開発には成功したらしいんですね。
当時は、赤色と緑色の発光ダイオードが開発されていたのみで、青色ダイオードはまだ開発されていませんでした。
これが何を意味するかというと、作れる色の数が限定されるということです。
しかし、青色があればいわゆる「光の三原色」がそろうため、どんな色でも作り出せるということです。
それだけ、求められていた技術だったんですね。
そして、1981年窒化ガリウムを用いた青色発光ダイオードについて国際会議で発表をします。
ただ、その反応は惨憺たるものだったそうです。
当時を振り返って、赤崎勇氏はこう語っています。
発表を行なっても、研究者からまったく反応がない。
当時はセレン化亜鉛が本命だと思われていて、世界中の有名な研究者や研究所が窒化ガリウムの研究から撤退していました。みなさん、やりやすい材料を選ぶのですね。
窒化ガリウムに関心を持っているのは、世界中で私たちだけなんだなと実感しました。そのときです、思わず『われ一人荒野を行く』とつぶやいたのは
引用元:PHPビジネスオンラインシュウチ
このように決して順風満帆とは言えない状況のもと、赤崎勇氏は研究を続けました。
それが花開いたのが名古屋大学だったと言えるのではないでしょうか?
松下電器と赤崎勇氏
実際のところ、赤崎勇氏にとって松下電器にいた頃は、なかなか苦しい時代だったようです。
それは環境ということではなく、成果がなかなか出なかったということ。
その中でも信念を持ち続け、研究した赤崎勇氏は称賛されて当然ですが、同時に称賛されるものはその上司や研究環境。
一般的に、そういう研究の世界では、成果が出ない研究や論文発表などが生まれないものは、批判を受け、研究を続けることが難しくなることも多々あります。
しかし、それが許された環境であったということが、この大きな研究を支えたものとも言えるでしょう。
赤崎勇氏はこう振り返っています。
自分の裁量で、光る結晶に打ち込めた最初の場所でしたね。
松下電器に行かなくても、いつかは窒化ガリウムの結晶をつくれたかもしれませんが、開発はずっと遅れていたでしょう。そういう意味では、(東京研究所は)私にとって一番大事な場所だったかもしれません。
引用元:同上
この言葉がすべて物語っているようですね。
研究という世界も昔に比べると、ますます経営的視点が必要になっている最近。
芽の出ない研究というと、なかなか続けるのが難しいことも多いと思われます。
ただ、長い不遇の時代を経て生まれた青色ダイオードが、今の私たちの生活を豊かにしているのは間違いない事実。
研究もその他の世界においても、
- 信念を持ち続けること
- 芽が出るまでしばらくは待ち続けられる環境
の重要さをあらためて感じました。
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以上、名城大学の赤崎勇氏がノーベル賞受賞!その両親と業績を生んだ松下電器とは?でした。